三鷹市芸術文化センターでの高松展トークセッションレジメです

大雨の被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。

GALLERYエクリュの森・三島にて開催されているMICA展は27日まで予約制で行なっております。ご興味をお持ちいただける方はinfo@ecru-no-mori.jpまでお申し込みください。(ご希望の日時にお引き受けできない場合もあることをご承知おきください。)

さて、お待たせしてしまいましたが、先般の三鷹市芸術文化センターでの高松明日香・詩人暁方ミセイとトークセッションの様子を以下お伝えいたします。開催よりひと月以上経ってのご報告となりました。かなり長いものですが、お時間のゆるすときにお読みいただければ幸いです。

トークセッション

2022年7月2日に三鷹市芸術文化センターで行われたトークセッションの様子を以下お知らせします。当日は司会を設けず、画家高松明日香、詩人暁方ミセイ両氏の自然な会話の流れに沿って行いました。まずはお二人が初めて出会った展覧会「Female Times III」の展示の話から始まります。

「Female times Ⅲ -新たな時代を刻む、女性美術家5 人展-」Bunkamura Box Gallery

 2014年7月23日(水)-7月29日(火)開催。

主催:Bunkamura Gallery

協力:GALLERY エクリュの森、思潮社 現代詩手帖

た:私の絵には図が描いてあるじゃないですか。手とか物とかが。だから手のことについて何かを言うということではないと思いますね、自分の作品は。それを(暁方さんが)分かってくださっている、という感じがして。

あ:今日はまさに、高松さんにそのことを聞きたくて来ました。様々な「関係性」に重きを置いて描いていらっしゃる方だな、と思っていて。

た:均等に間隔を空けて規則的に、ではなくこのように並べることを、この2013年のグループ展「Female times Ⅲ」の頃から始めました。

どうしてかというと、絵とかイメージって、言葉もそうかもしれないのですが、ふわふわ飛んでいる気がする、綿毛のようにヒューッと飛んでいって、ぽっと現れるっていうのでしょうか、ふわふわ浮遊するみたいになっています。

で、これは2015年のGALLERYエクリュの森での初個展の展示写真です。

この時に描いた、女性をたくさん描く、ということをその頃はやったことが無くて。

あ:わたしもこのとき初めて高松さんの絵でこんなにたくさんの女性が描かれているのを見ました。

た:何を描くか、初めて個展をさせてもらうってすごいプレッシャーがあって。何を描けばいいか分からなくて悩んだときに、ふと、地元の美術館で作品を見ていた時に、あ、自分の好きなものを描けばいのだという、当たり前のことを思い出して。自分の大好きな宝塚のD V Dを、その美術館の待合室でネット注文して、これを描こうと思って。

あ:すごい。ピンときたんですか?

た:そうピンときて、で、この時の作品が、今開催されている三鷹市美術ギャラリーの展示に入っていて、その時の一枚だったのでエクリュの森の初個展は思い出に残る展示でした。この作品は図録の表紙にもなっていました、また後で出てきます。

この展覧会の作品がその後の展示に活かされているなぁと思っているので、今回のスライドに選びました。

これはその次の年に制作した、愛知芸術文化センターの地下通路みたいなところでした展示なのですが、その時は設営時間的にもうふわふわさせる余裕がありませんでした。特殊な展示会場で、これは公募展だったのですが、自宅から遠くて下見にも行けないし、展示作業も一日で展示しなければいけない。

いざ搬入してみたら、展示する壁の長さが想像していたより短い、でも描いた絵は全部展示したいからぎゅうぎゅうに押し込めてしまえ。ぎゅっとしているのですが、それが逆に、その後の絵同士をピタッとくっつけて作品を構成し、まとまりとして作品を見せ、表現する制作に繋がって。

あ:この頃から絵をくっつけるようになったんですね。

た;そうですね。本格的にというか。最初はすごく消極的な理由で繋げたわけですが、それを三鷹市美術ギャラリーの学芸員さんが見てくださって、三鷹市美術ギャラリーでの展示はくっつけてみましょう、という感じになりました。

この時も、これは昔の映画を見たり、最近の映画を見たり、組み合わせて、いろんなところからモチーフを引用して描いています。全然関係ないように見えるものも、くっつけて展示することで何か漫画のコマのような感じで物語が表現できたらいいな、と思ってそうなっています。

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これはVOCAという上野の森美術館で毎年開催される、全国の専門家の方が作家を推薦する展覧会の時の展示写真です。今回は作品の組み合わせを意図的にしてみよう、今まではすでにある作品を組み合わせている、というのをしているけれども、組み合わせることを前提に作ってみよう、と思って組み合わせて作った初めての作品になっています。これは「印象材:鳥」っていうタイトルなのですけれども、いろいろなところに鳥がいたり、鳥が羽ばたいたりしているみたいな形にする、みたいなことを意図してこういう風に横に広がっている、翼みたいにした構成した作品でした。

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これもこう、くっつけたり、見下ろしている視点だけど上にあることで不思議な空間見たいのが作れないかとこうしてやってみたりしています。この時に課題が見つかって、これはいろんな方と一緒に展示されているのですが、作品同士がギュッとなっていることで、なんかこう狭い感じがして。

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あ:今までの感じに比べたらということですか。

た:具体的にいうと周りの方に比べると、ギュッと縮こまったみたいな伸びやかさがないっていうのですかね、そういうことをこの時は感じました。一つこうしようと思ったら、課題が生まれて、それに対処しているみたいな感じで制作が進んでいます。

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2017年の三鷹市美術ギャラリーでの個展でも、この作品を展示しました。ギュとしすぎてもダメなんだなぁと学び、ちょっと間隔を広げてみたり、さっきのこれも同じ枚数ですが、少し位置を変えて広げて同じ作品でも位置を変えたりすることで、あ、見え方って変わるんだなぁっていうことを学んだり考えたりする機会ができました。ですがこれもこのように感じたのは、展覧会がはじまって、組み合わせたこの作品を見た時です。この時は美術館の学芸の方が全体構成を考えて設置をされたので、内覧会で展示を見たときに、自分の絵を客観的に見ることができた、という感じだったんです。作品の塊の一つ一つの組み合わせは私が図面を作りましたが、学芸の方がにこやかに「まぁ設営が終わって展覧会が完成したら、見に来てください。」みたいな感じで(笑)。

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あ:そうなんですね。

た:それでこの時は右から見る、左から見るというような判断ができないな、と思いました。自分は紙の上で作品の位置を決めていったけれど、あ、この組み合わせはこれの隣なの?みたいなのは確かその時、壁もこのようになっているというのは知らなかったので。

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あ:高松さんはそれまで、作品の見え方とか位置とか並び順とかも合わせて作品だったのだけれど、この展示に関しては美術館の学芸員の方のセンスで並べられたんですね。

た:そうなんです、この一組の中の構成は自分で決めましたがその塊が全体でどういう順番になるのか正確には知らなくて。最初はおお、となりましたが、でもなんかこう、どこまで自分の作品なのか、と想像した時に、そうか自分はここにいるけれど、作品と自分は別の人だから、作品はそっちで生きていくという感じがあって。それは違う、というより、スーッと受け入れるという気が楽になったっていうか、そんなふうに感じました。

今開催中の三鷹市美術ギャラリーでの収蔵作品展Ⅲでは、その時の個展の作品が一組展示されていますので、もし宜しかったら是非ご覧ください。

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「地中海地方の天気予報(午後のレディ)」

2019年に地元で展示する機会があって、これは香川県文化会館で個展をした時の展示写真です。

この時はかなりのスペースの会場でしたが、学芸員さんの意向で自分で展示内容を構成しました。

この壁面の展示写真が祭壇のように見えて気に入っています。祭壇があって両端に、という感じで、私の好きなイタリアバロック時代のカラバッジョという画家の作品をモチーフにさせてもらったりして、絵を描いています。

あ、私邪魔じゃないですか?(笑)見えますか?(笑)

この一組はこの形のまま三鷹市美術ギャラリーでの個展でも展示していていたのですが、これは、まさに自分の作品とはなんだろう、と悩んだ時に、ミセイさんの「ネモフィラ国立公園」の作品を何回も読み返して。んーと思い悩みながら、あ、でも前の時もそうだった、私は好きなものを描いたらいい、と改めて、ミセイさんの詩を何回も読んで描きたいもの描いて組み合わせたもので。

あ:私、この作品がとても好きだったんですけれど、まさかそんな経緯があったなんて。今初めて知りました。

た:そうですか、「青く光る」というタイトルなのですが、その中にも一枚ずつにタイトルがついているのですが、向かって右端の、この十字架のようになっている作品は「導くように」っていうタイトルがついていて。それはまさにミセイさんの詩に導かれるみたいに描いていて、だからこその作品のことをミセイさんにお伝えしたかった、してなかったですか?

あ:この十字のことは聞かなかったです。びっくりしました。

た:すごくとっても思い入れのある作品だったので、地元でも展示したいと思って、ここに展示しました。

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これが最近の2021年の国立新美術館で開催された「シェル美術館賞アーティスト・セレクション2021展」の展示写真です。先ほどの「青く光る」という作品でも少ししているのですが、画像の切れ目がちょっとずれているというか、画像を組み合わせたものを描く、ということを少しずつ始めていて。

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この作品も、一枚の絵の中にこれは二コマに分かれていますけれど、一枚の中にぎゅっと詰め込んで。図を詰め込んでいくのではなくて、場面を入れていくっていうのですかね、それをやり始めていて。それをまたさらにここにピューっと線が紛れ込んでいる、という。絵も組み合わせるけれど図も混ぜていくみたいな。

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でタッチは風のように全体に満遍なくある、というような状態にしたいと思って、この時は描いていました。

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この作品もさっきの氷山の作品と同じように、樹氷を描いてみたい、と思って描いた作品と、寝ている人物を描いた作品を組み合わせて展示した作品です。

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この時にこだわったのは、こっちにこの人は向いていのですが、あんまりはっきり顏が分からないっていうのですかね、あるけれどもない、みたいな。顔があるけど、ない、みたいなそういうものを思いながら描いています。

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あとこんな風に絵を水平に置いてみて、絵がこっちからこうもくるしこっちからも落ちるみたいな図のやりとりがあるっていうか、うまく言葉にできなのですがそういうのを思いながら描いています。

最後に、これは延期になっていて開催は未定なのですが、岡山県倉敷市の大原美術館というところで、きっといつか開催される展覧会です。2020年の4月で、その時は緊急事態宣言が出ていました。展示はしたのですが結局公開されず、今もずっと作品は美術館に預かってもらっています。今も所蔵品展は開催されているのですが、企画展は無くて。きっといつか開催されると聞いていますので、公開される時がきたらお知らせしたいなぁと思っています。

これは何をする展覧会かというと、所蔵品と自分の作品を組み合わせる、というものです。自分が持ってきたイメージじゃなくて、美術館にある収蔵作品のイメージから想像を膨らませる、という感じです。所蔵品の作品の間のストーリーを勝手につなげていくっていうのですかね。そういうのをやったりして、こんな感じで今までちょっとずつ課題を見つけながら、制作をやっています、ということを、スライドを使用して説明させていただきました。そんな感じです。

あ:私は高松さんの絵を、最初からすごい好きだなって思っていました。けれどなんで好きなのかな。純粋にまず思うのは、すごく乾いた感じがするんですけれど、同時に安らぐ感じがするっていうことです。こっちに無理やり入り込んでこない、強引に割り込んでこないのが好きで。なんかそれって高松さんが、さっきもおっしゃっていたんですけれど、「私」が表現したいことに重きを置いているんじゃなくて、絵と絵の間、だったり、読み手と絵の間だったり、その関係性、そこの間に生じる、言ってみれば現象の方に重きを置いているからなんじゃないかな、という気がしています。それは、私自身も詩を書く時に意識をしていることです。孤独なまま、自分が自分のまま、絵と一緒にいられて、絵との「関係」を結べるというか。そういう感じが私はすごく好きで、改めてちゃんとこうして説明を聞くのは初めてなんですけれども、すごい納得しましたね。自分を表現するということよりも、学芸員の方が並べたのをみてそれはそれでいいな、と思ったり、場所と呼応して新しいものが生まれるっていうのは、自分じゃなくて関係の、何かと何かの間のところを大切にしてるんだなって思って共感します。絵に描くものも、日常的なものを描いていらっしゃいますよね。モチーフも日常的だし、描き方も大袈裟な描き方をしないというか、ただ切り取ったような描き方をされていて。それ自体は、物も空(くう)、私も空。だから何もない。けれどその間に発生することにこそ価値がのあるものだ、という感じがします。

た:はーーー、はーーーーー(会場笑)

あ:ちょっと聞きたいことがあって。今回の会場に展示された作品は、これは、一応左から右へ歩きながら見るようにできていますね。いま三鷹市美術ギャラリーに飾られている<地中海地方の天気予報(午後のレディ)>も、お客さんが左から部屋に入って見て行きます。異なる作品が連なることで、存在しなかった物語を感じさせます。高松さんが意図した物語ではなく、お客さんが自分で想像する物語です。ここで聞きたいのですが、これらは左から順番に見ていくものとして設定していますか。それとも全体で、ぱっと全貌を受け止めることを念頭に置いて組まれているのでしょうか。

た:そうですね、今この展示室に関して言えば、入り口から入って左から順番に見ていただく形になっていると思います。自分がその場所に行って、悩んでもいい場合は、壁とか光とかを見て、絵を置きます。今日もそうしました。

あ:その空間と呼応するように、ということですかね。

た:はい、今日は展示計画を立てていなくて、これはここに、みたいな。絵が、この絵が合う場所っていうのがあって、それが最後に勝手に繋がっているっていうのでしょうか。こう見て欲しいみたいな物語があるわけではないのですが、この絵はこの場所に置くべきだろう、みたいな位置がありますね。

あ:なんとなく自分で位置がわかる。

た:はい。

あ:じゃあ、左からの流れもあるし全体からもあるっていう感じですか。

た:はい、描いている時は近くにいすぎて分からないです、絵との距離が30センチくらいで、近過ぎて。でも離れてみると、この絵はこういうことを言っているのだな、という。

あ:絵とも一回他人になる、みたいな感じですかね。離れてみるという。

た:そうですね、きっとこういうことが言いたかったのかなぁみたいな。ないですか?詩を書いている時。

あ:わかりますよ、めっちゃわかります。驚きましたけれど。

た:言葉にして初めて、みたいな。

あ:詩集を作るときとか。過去の詩を集めて並べようとなった時に、絶対この並び順じゃないとだめだなっていう、理屈じゃない感覚の部分が必ずあります。一応、読む人を振り回さないようにしなくちゃっていう意識はあって、だから求心性を欠きすぎるような流れにはならないように同じようなテーマでまとめようっていう気持ちはあるんですけれども、それを冒してでも絶対こう、ていうのがあります。理由はわからないけど。でもその理由は、多分考え過ぎないほうがいいんだろうなって思っています。人間にはちゃんと知性とか論理的に考える力があるけど、それに追いつかれちゃうと、疲れちゃうし色褪せてつまらない。だから追いつかれないくらいの速さで、こうふわっと、いきまないでやりたいなぁみたいな気持ちがあって。高松さんの作品もきっとそうなんじゃないかなって思います。理解するよりも先に、全体から何ががふわっと寄せてくるような。

た:んーーーんーーー(笑)

すごい全然関係ないかもしれなのですが、最近やっと、絵って全部描かなくていいのだ、ということに気がつきました。ちょうどこれを描いている時に、息が詰まるくらい描いて。でも写真のようにリアルに描く方に比べたら全然描いていませんが。

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自分の中では、もうやり切ったってくらいに描いた時に、あ、絵ってそうじゃない、これはこれで置いといて、言いたいこととかはこんな風に表現する以外に何か方法がある気がするっていう気がして。今ここに吊り下げている絵、タペストリーのような絵があるのですが、今まで固執していたことを一回捨てて、バシッと貼ったキャンバスに描くのではなく、イメージをホワーっと投影するみたいな。でもそれでも絵って出来たのかな、という試みです。作品の見た目はあまり以前の作品と変化は無いかもしれないですが、自分の中で大きな変化がありました。ミセイさんは言葉を書く時に、全部言うわけじゃないじゃないですか?

あ:そうですね。

た:それって意識的に省く時と、自然とフワっと省けている時などの違いがあるのでしょうか?

あ:意図的に減らすことに注力しているかもしれないです。書き終わった後に読み返して、書き足すよりは減らすことが結構多いかもしれない。ものをなんとなく書く時にできるかぎり説明的にならないように意識していて。詩というものがそもそもそういう性質のものだと思うんですけれども、説明のできない、よくわからないものだけれどここに確かにある、みたいなものを捉えるのがよろしいと思うので、ものを配置するような気持ちで書いています。説明をするというよりは、要素を配置して、その要素の間に発生するもの、それこそ関係性で何かを表現できれば、と。でも、昔はもっと完全に単語だけを並べるような詩も書いていたんですけれど、そうするとあまりにも本当に独りよがりな感じがするので、もうちょっと自分の心も入れて書こうとは思っています。それもひとつの要素にして。

高松さんの絵もそうなんではないかと思うんですけれど、風通しがよくないと嫌というか、自分の中だけのものでできているのがものすごく嫌で。何か他から、自分じゃないものとか、外からの風が作品の中を通ればいいなぁと思っています。それを考えていくと、言葉の持っている力というのは、私の力ではなく、その語がもともと背負ってきた歴史やイメージとかのそういう力だと思うので、その力をお借りして、ここで私がちょっと配置してみて、こんなもんができました、というようなものを作ってみたいと思っています。高松さんが異なる絵を配置するところに、何か近いものがあるんじゃないかな、と私は思ったりもするんですが、いかがですか。

た:全く一緒ですね。はい、もうそのまま私の説明として、というか(笑)。香川の方言で「それ全く同じです」というのを「まっつくつい」って言うのですが、「まっつくつい」でした。

あ:自分の力だけで力づくでやっていると、限界がすぐに見えてしまいます。思ってもみなかったような遠くには行けない。何でもかんでも力づくでやっちゃダメなんだなっていうのを特に三十を越えて思いました。なんですかね、自分だけで生きているんじゃないんだから、みたいな気持ちがいつもあります。

た:はーすごい、すごくキました。こうあーなるほど、

あ:それから、高松さんの絵と言えば青が印象的だと思うんですけれど、なぜ青色なのでしょう。ブルーグレイに近いものから鮮やかな青色まで、すごくバリエーションがあると思うんですけれど。なぜ、青色を選ばれたんですか。あるいは、自然と青色になっていったんでしょうか。

た:なんか勝手に青くなっていっていますね、青ざめていっているっていうか。絵に元気が無いというのでしょうか、元気無いというか、すごく明るい絵じゃないじゃないですか?自分の絵が。

あ:爽やかな感じはするけれど、元気いっぱいかっていったらそうでもないのかな。

た:はい、でも子供の頃は思い切りがあるとか、明るい色を使っているとか大胆というのがすごく評価されるじゃないですか?人と違うとか。けれど自分には全くそれができないし、分からないけれどそのまま絵を描き続けてきて、こうやってミセイさんに青が、印象的と言っていただいて初めて、あ、これでいいのだ、というか選んでこうなっているわけでなく、勝手にそうなっていく。

あ:そうなんですね。勝手になっていく……。私は、初めてみた時もですし、こうして眺めてみて思うのは、高松さんの青色っていうのは、白と黒のその間の色なのかなということです。青色って、薄くなれば白くなり、濃くなれば黒になると思うんですけれど。その間の決まりきらない色というか、あわいの、自由で、どれでも存在していい色というんですかね、白と黒の間の全ての色が高松さんの青なのかな、って思っていたんです。でも、まさかそんな、ひとりでに選んでいた色とは。でも、特徴ってそういうものなのかもしれないですね。

た:以前非常勤で行っていた学校でクラス20人くらいの受講生の方に、全員同じ風景写真を見て同じように再現して絵具で描く、という課題をしました。そうしたら全員同じ写真を見ているのに、当たり前かもしれないですが全員違う絵が出来上がりました。色味も違うし形も微妙に違っていて。だから自分とは作品に滲み出るのだな、というか、意図していないところに自分がいる、というのですかね。それが、私にとってはこの色だった、みたいな、かなって。

あ:なるほど。だとしたらすごい世界ですね。本当に美しくて、でも全然嫌ではないんですよ。心にくる絵って、くると同時にでもなんかちょっと強烈で一緒の空間には住みたくないなみたいな気持ちによくなるんですけれど。高松さんの絵は、今も我が家に飾っているんですが、本当に絶妙に侵略してこない。きっと高松さんが持って生まれたもので、高松さんにしか描けない色なんですね。

た:このように胸がいっぱいになる言葉をいただくときにフラッシュバックのように思い出すことに、学生の時に出品したターナー色彩の公募展会場でターナーの会社の人に「みなさんヘビーユーザーのおかげでやっていけます」って言われて、ヘビーユーザーって・・と思った記憶があって。けれどこんな風に色を使うことを大事に思っていただいて、言葉にしていただいて、すごく・・

あ:ヘビーユーザー?いっぱい使ってくれてありがとう、という(笑)。

た:はい、そういう思い出がいつも蘇っていたのですが、こんな風に思ってくださるって、言葉もくださって感動っていうか・・・言葉が無くなって・・・はい休憩に。

た:後半はいただいたアンケートなどをもとに進めさせていただこうと思います。

「タペストリーの絵は掛け軸みたいです。和室に飾るのもいいようですが、どうでしょう?」

あ:和室!意外にいいかも。

た:展示場所を選ばないものが作りたい、って思っていて

やっぱり絵って、壁とかにすごく影響されます、壁の色とか。吊り下げている作品は宙に浮いていてもいいなぁ、壁のないところにそういうのを作りたいなぁ、と思っているので、いろいろなところに動かして展示してみたいな、という思いがあります。

あ:描き方とかモチーフは西洋的な部分が多いような気もしますけれど、でも発想というか考え方は逆にすごいアジア的というか、空間との親和性をとか、周りのものとの結びつきの中で存在する絵だ、と思うので、めちゃくちゃいいんじゃないですかね。ただこのサイズだと、大豪邸向きですね(笑)。もうちょっと小さいサイズならいけるかも(笑)。

た:なんでも描きます(笑)

あ:「個人的な質問で申し訳ないのですが、私自身大学で油絵を描いていてメディアについて考えることも多く高松さんがアクリルを用いている理由をお聞かせいただきたいなと思いまして」なぜアクリルなのか。

た:アクリル絵具ということですね、高校生の時は油絵具を使っていました。その時に、何か軽さを出したいなと思って、もちろん油絵具は薄く塗ったりできるのですが、もっと軽く描いておきたいと思って。でアクリル絵具に挑戦して、今もずっと使っています。でも少しずつアクリル絵具の中でも種類を変えていて。これを描いていた時はアクリルガッシュっという全く艶のないタイプの絵具で、顔料が表面に出ているタイプなので絵の表面が光ったりしません。最近制作したこのキャンバスの作品は、樹脂が表面に出てくるタイプのアクリル絵具を使っていて、絵の表面に光沢がある仕上がりになります。同じアクリル絵具でもちょっと変化があったりします。タペストリーのような作品も、布に描く用のアクリル絵具を使っていたりします。絵具との対話、というのでしょうか。製品によってちょっと粘度が違って、水の溶け具合が違うので、絵具と対話をしながら描いている、という感じですね。

た:「小さい頃はどんなお子さんでしたか、今までで一番嬉しかった時はなんですか?

ヨーロッパに行ったことはありますか?好きな国はどこですか?」

ミセイさんは小さい頃はどんなお子さんだったのでしょうか?

あ:小さい頃は明るい子だったんですが、小学校くらいの時にこの世につまづきましたね(笑)。どんな子でしたか?

た:なんかこの世につまづくっていうのはなんか、分かります(笑)子どもの頃についてですが、以前何かの雑誌で、ミセイさんがお父さんと一緒に散歩されたり、虫を捕まえた詩を、読んだ気がするのですが、違いますかね?

あ:父は理科の先生だったので、そういう自然の中に一緒に出かけたりしたことを、書いたかもしれません……すいません、書いた詩の事を覚えてないことが多くて。

た:何かそういう頃って何かありますか。子どもと親って、影響を切り離して考えがたい気がして。

あ:記憶に沈み込んじゃっているかもしれないです。高松さんはご両親の影響はありましたか。美術をされている方なのでしょうか。

た:親は全然絵は描いたりしていないです。質問から離れちゃうかもしれないですけれどお母さんとかは今でも「え?何この絵。」と言います。あのタペストリーの女の人の絵は、部屋で描いていると「え、なんて顔なん?」とか言われて(笑)

あ:なるほど美的感覚の違う……。

た:何でこんなにいつも気持ちが下がる事を言うのかなって(笑)

でも普段親の愛情を感じているので、別に反発したり怒ったりはしないのですが。

あ:そんなに反発とかしない子だったんですね。不良少女だったわけじゃない。

た:そうですね、でもね、やっぱりつまづきますよね

あ:つまづかないでいられたら、今頃丸の内で華やかに働いてたかな(笑)。

た:あー(笑)。それで他の質問、今までで一番嬉しかった事。

あ:高松さんは、なんですか。

た:嬉しかった事、今が一番嬉しいです。

あ:ふふ、私もです。

た:話も聞いていただいて、ミセイさんにも会えて、展示もできて見ていただけて。

あ:私も高松さんとこうしておしゃべりできて今が一番うれしいですね。

た:ヨーロッパは行かれたことありますか?

あ:行きました。ドイツだけですが。ちょうど高松さんがノイシュバインシュタイン城を描いていらしたので、絵葉書をお送りしました。

た:いただきました!大切に飾らせていただいています。

あ:ヨーロッパはそれだけです。高松さんは行かれたことありますか?

た:ヨーロッパは学生の時に研修旅行でイタリアとかに。カラバッジョというイタリアのバロック時代の画家が大好きだったので、その作家の作品がたくさん見られたので印象に残っています。

あ:好きな国はどこですか?

た:んー

あ:私はトルコが好きですね、アジアとヨーロッパの境目の、ちゃんとどっちにもなっていないようなところが好きです。

た:ちょっとだけメキシコに行ったことがあって、メキシコは今も思い出しますね。すごく好きだったなって。

あ:明るいイメージですか。

た:意外と明るくない、闇を抱えている感じでしたね、カラフルな家とかを想像していたら、都市部に滞在していたのですが大体全部灰色っていうかスペイン統治時代の名残で古いヨーロッパ調、じゃないけど、そのままじゃない感、ということにすごく惹かれました。

あ:ああ、絵にもそういう感じがありますよね。

た:はい、本流じゃない感、というのでしょうか。そういう様子に惹かれましたね。

あ:んーー、納得。

た:「高松さんは詩との出会いで、暁方さんは絵の出会いで 影響を受けたことはありますか?

た:ずっと影響を受けていましたね、暁方さんの「ネモフィラ国立公園」の詩も特別だし、言葉って毎日喋っているけれども詩を作るって自分ではできないですし。いつも手元に置いて、制作の合間にいつも読み返しています。その雑誌(現代詩手帖)しか、「ネモフィラ国立公園」は載ってないですよね?

あ:そうですね、詩集とかにも入れてないです。

た:あの雑誌を横に置いて、眺めてはまた描いて。

あ:私も家に高松さんの絵を飾っているんですよ。もちろん常に進化してて、どんどん作品の描き方もやり方も変わっていると思うんですけれども、それでもやっぱり一個の道を突きつめているっていう感じがします。我を押し通す感じじゃなくって、周りを受け止めながら自分の道を突き進んでいる感じが、私もこうでありたいな、といつも思っています。影響を受けていますよ。高松さんの絵と出会って詩を書いたことによってなのかな。

た:あぁー、なんか救われるっていうか。

「パレットではメインで何色くらい使っていますか?香川での日常世界での色彩は作品にうつりますか?支持体へのこだわりはありますか?」、メインの色は20色くらいで色相環みたいに絵皿に丸く出して描きます。意外かもしれませんが、そんなに青色の種類を出しているわけでもないのです。

あ:そうなんですね、勝手に高松さんのパレットは青色の凄まじいバリエーションかと。

た:あー。

あ:違うんですね。

た:アクリル絵具ってすぐに乾いちゃうので、出したら固まっちゃいます、だから色数を絞って、自分の定番色を絵皿に出さないといけないのですよね。

あ:それが20色くらいなんですね。

た:そうですね、これをこう出して、ですね、あと白と黒、みたいな感じで。もし油絵を描いていたら、もっと色数を使っていたかもしれないです、乾かないので。

パレットの色というのは詩で言うと何にあたりますか?

あ:語彙かな。でも色?かな?

た:語尾?とかですかね?

あ:そうですね、自分の意識の中に沈んでいる言葉の中から、そのとき良さそうな言葉をどれにしようかと探り出しているような感じがあります。それがもしかしたら、あの絵具どこだったっけ、というような感じなのかもしれないです。

た:「日常生活での色彩」、なんか赤っぽいものとかピンクっぽいのを周りに置くのが苦手で、何か色のバリエーションがある場合、歯ブラシでもピンクとか緑とか紫とかあると、なんとなく青色を選んでしまって。

あ:染み付いている色なんですね、自分の感覚に。

た:今ふと自分が歯ブラシを買う瞬間を思い出しましたが、青色が白色みたいな感じですね、自分の中で。

あ:一番ベーシック。

た:そうですね、無っていうか色を選んでいる感じじゃない、というのでしょうか。

赤とか緑は、意図的に選ばないと取れないけど。

あ:普通のものと思ったらまず青、という感じ。

た:物を買おうとしたら、そうですね。絵を青くしているのではなくて、無ですね。

あ:じゃあ、これら全部そうなんですか、一番普通の色、無の色を選んでいるということ?

た:無のような気がします。

あ:へーびっくり!

た:日々の生活の中で気をつけていることはありますか?こんな言葉には触れないようにしよう、とか。

あ:ないない、なんでもありですよ。

た:あー、そうなのですね。

「支持体へのこだわり」、特はありませんが、けれども紙に描くのが一番好きですね。水が染み込んでいくし、一番子どもの頃から描き慣れている素材だし、誰もが描いたことありますよね、紙に絵って。当たり前ですけれどした経験があって、ちょっとキャンバスだとドキドキするっていうか緊張するっていうか、習字みたいにのびのび描けるっていうのは、やっぱり紙ですね。

あ:のびのび、とか好きなものを、っていうのが高松さんにとって大切なんだと思います。そして自然体で一番普通だと思っている色で描いているんですね。

た:詩って、言葉に出す、聴く、文字を見る、読む、など様々な表現方法がありますが、とある詩の展示で、詩の文字をくり抜いてその文字を宙に浮かせて展示をしていました。詩を展示するってすごく難しいな、と思ったのですが、ミセイさんご自身の詩はどういう状態でいろんな方に見られている瞬間が、一番いいですか?本?

あ:一番ごく普通に印刷された状態かな。最近ならネット上なんかでもいいと思うんですけれど、気を張らずに普通に読める状態ですかね。詩を読むって本来すごく孤独な行為だと思うんですよね。だからできれば聴衆に向かって読み上げるとかよりも、私とその詩とその人、っていう感じが一番いい。本来はそういうものだなっていう気はしてきましたね。

た:ありがとうございます。

あ:次の質問。「次に描きたいテーマなど」。

た:今タペストリーみたいな布に描いている作品のように、自然と図がヒューッと融合していくみたいな作品に挑戦しているので、そういうことをもうちょっと何回かこの方法を続けていってやりたいなーっていうのが今の目標です。

ちょうどこの作品の時はこうバシッと図が切れていますけれど、図そのものがフワーッと融合しているみたいな、そういうのを描きたいっていうのが今の目標です。ちょっとだけやろうとしているのが奥の女の人の作品で、やりすぎてもおかしくなるし、今挑戦中なので、いつかまとめてそういう作品も発表できたらいいな、という夢があります。

あ:楽しみですね。倉敷のも楽しみにしています。

高松さん、実はサプライズがありまして。時間もないんですけれど、今三鷹市美術ギャラリーに展示している作品について詩を書きましたので……。(拍手)

た:えー!?そんなことが。すごい!

た:私が二回も詩を読むなんて申し訳ないですが、よかったら皆様、帰りにギャラリーに寄って作品も見ていってください。

(注:以下暁方ミセイさんによる詩の朗読)

雲影、連絡、連なる透明のその奥底の        

                    暁方ミセイ

泡立つ声が雲にとけて

昼寝の潮目が空にうずまくよ

日向と影に半分ずつまぎれて

休日は夏の奥に隠れるよ

水気をたくさん蓄えた

安寧な魂たちは

午後のほうにくだっていくよ

翳りのなかあかるさを集めるもの

切り花のストローが

澄んだ紺色の不眠を吸い上げる

静かな音はからだの渚の波を寄せ

身をまかせれば

涼しい風が来てわたしを書き換える

くだらない日々のおしゃべり

海には海のくらし浜は浜の

散歩の並行世界で泳ぐ魚たち

みんないっしょにこのあたりの

まどろんだ空気に映っているみたい

同じ時間にからめられ

深い青緑のおもてで

ひょっとしたら永遠が

永遠が

住処となるかもしれない今日の

他人のような よきわたし

明日にはもう見えない記憶の 箱のなかにしまわれる

誰でも存在することだけがほんとの役目だね、と

熱暑の木立は繰り返しざわめく

内気な夏がとつぜん破裂して

宙から降ってきてすべてを混ぜるよ

よき日々は青い海藻

目のうえでみんな手を結んでいるよ

以上です。

た:感激〜!これはまた時間をかけて、読み込んでいきます。それから、タイトルはどうしてこれなのでしょうか?

あ:あ、タイトルの付け方ですよね。それも聞きたかったんです。私はすごくタイトルをつけるのが苦手です。作品とタイトルがイコールのものになってはいけない、とはよく言われていて、そういうことを気をつけたりしつつつけています。最初に読む行なので、作品全体のB G Mみたいな感じでつけているかな。なんとなく雰囲気を引っ張りながら読んでもらえたらっていう気持ちでつけています。高松さんはいかがでしょう。

た:あー、でもおっしゃる通りそのようでいて、この作品のタイトルはまた違うのですけれど、いつもタイトルの時は・・・いつも最初は消極的な出だしなのですが、英訳しなきゃいけないじゃないですか、タイトルを。それはとても大変だから、英語から日本語にすればいいんだと思っていたら、迷わなくていいな、と思って。それで。

あ:結構シンプルなタイトルが多いな、と思っていたんですが、高松さんのは先に英訳してるんですね。

た:あ、「weblio」というサイトが。

あ:英語で書いて、サイトで出てきた言葉をタイトルにしているんですか?

た:英語でも書いてないです。すみません(笑)。

気になる単語を日本語で入力して翻訳ボタンを押すと、英語がパッと出るじゃないですか。その中の例文がずらっと出てきて、その中から気になる単語をいくつか選んで。これだ、っていうのを。今もここにあるタイトルはそのように付けています。

あ:えーそんな付け方をされてたんですね、なんかここでも「自分」じゃないんですね。

た:そうです、そうです。

あ:検索結果の中で……!

た:そうです!

あ:よきものを探すと。

た:神のように(笑)。あるものを。

た:現在三鷹市美術ギャラリーで展示している作品も三鷹の時につけたタイトルなのですが、最初に私がタイトルをつけていたら学芸の方に、これはちょっとダサいので変えましょう、なんていう感じで。

あ:そんな学芸員さんと二人三脚なんですね!

た:そう、衝撃を受けたけれど、自分でもちょっとダサいかなぁっと思って(笑)。

あ:戦わないんですね(笑)。

た:戦ってもなんか意味がないし、戦うっていう気持ちもないし、それはそれで。その方が、実りがある。

あ:そうですよね、戦ってもしょうがないことは世の中にたくさんある……。

た:はい。

あ:高松さんの衝撃の秘密もわかったところで、本日はお開きにいたします。皆様、今日はありがとうございました。

た:すごい感動でした、ありがとうございました。

当日の会場の様子です。プロジェクターの画面の左が画家高松明日香、右が詩人の暁方ミセイさんです。多くの方にご参加いただきました。